1941年 前後 戦時下の 思い出すこと
私が
やっと小学校に上がったと思ったら、
確か2年生で国民学校と名が変わった。
そして私たちの生活も戦時体制となって行った。
まず母が防空頭巾というのを作ってくれて
そこに血液型まで入れた名札を縫い付けた。
そして学校には軍の人が出入りするようになり、
校庭から良く見える所に大きく、敵機を撃ちまくれ!と言うようなスローガンも掲げられた。
食料はお米を初め、次々と配給制になりまず卵や砂糖、お菓子も消えて行った。
4年生頃、真珠湾攻撃で号外が配られ、
翌年頃からは学童疎開が始まった。
うちは家族疎開で大阪市内から和泉佐野の方まで
家財は馬車での移動だった。
そこから更に和歌山の近くの大きな造船所の社宅に移った。
しかしそこも狙われるようになり、
ある時は警報で
1人で下校途中にいきなり
敵の飛行機が低空飛行をしてきて
機銃掃射して来たので
慌てて電車のガード下に逃げ込んで助かった
この体験も忘れる事は出来ません。
やっと小学校に上がったと思ったら、
そこに血液型まで入れた名札を縫い付けた。
校庭から良く見える所に大きく、敵機を撃ちまくれ!と言うようなスローガンも掲げられた。
食料はお米を初め、次々と配給制になりまず卵や砂糖、お菓子も消えて行った。
4年生頃、真珠湾攻撃で号外が配られ、
翌年頃からは学童疎開が始まった。
うちは家族疎開で大阪市内から和泉佐野の方まで
家財は馬車での移動だった。
そこから更に和歌山の近くの大きな造船所の社宅に移った。
しかしそこも狙われるようになり、
1人で下校途中にいきなり
敵の飛行機が低空飛行をしてきて
機銃掃射して来たので
慌てて電車のガード下に逃げ込んで助かった
この体験も忘れる事は出来ません。
コメント
コメントを投稿